STORY

【小説版】

 『飛鳥の空に友と誓ひて』

小野妹子
上宮王(かみつみやおう):後の聖徳太子



  ***



空は青く澄んでいる。そこには夏らしいいくつかの雲が浮かんでいる。
飛鳥と呼ばれた地には都が築かれ、人々が行き交う。
都の賑わいは都のはずれにある邸宅にまでわずかだが響いてくる。
小野妹子は筆を手に、独り空を見上げていた。
上宮の若君は「昼頃には戻るだろう」そう言って昨日、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)―現在は推古天皇として即位した―の宮へ出かけていった。
――少しだけ遅い。
心配しながら、けれど、彼と推古様の間柄であればよくあること――そう思い直して筆を進めた。
足音が屋敷の廊下を近づいてくる。
妹子は筆を置いて襖に目をやった。
閉ざされた襖の向こうから、右へ左へふらふらとした安定しない足音が近づいてくる。
「なぁ、妹子ぉ」
若君の声が響いて、襖が勢いよく、けれど力尽きて倒れこむようにひとりの男が現れた。
「なぁ、妹子ぉ」
妹子はひとつため息をついてひざを男に向け、姿勢を正した。
若君は背中を襖にあずけ、顔を上げた。
普段は健康的な彼の顔は、青白くなっている。
庭から通り抜ける風に、酒の臭いがわずかに混ざる。
「やべぇ、しんどい」
若君は呟くように言った。
妹子は尋ねる。正した姿勢のまま。
「どうしたんです?」
酒の臭いのするその衣服からわずかに漏れ出すように声がする。
「やべぇ」
妹子はため息をひとつついて言った。
「まったく、『上宮家の若君』ともあろうお方が、こんなところで」
若君と呼ばれた男は顔をわずかに上げた、眉間にシワが寄っている。
妹子は知ってか知らずか、本来戻るべきである邸宅に住むとある女性の声真似をするように言った。
「もう昼下がりですよ?」
若君は顔を起こし背中を襖に預ける。
「飲みすぎた」
妹子は手前の小さな箪笥から手ぬぐいを2枚ほど取り出した。
丁寧に洗われたそれは、使い古されたものでありながら、卸したてのように白い。
「えぇ?」
責めるような口ぶりはますます若君の乳母のように聞こえる。
若君は許しを請うように言った。
「呑・み・す・ぎ・ま・し・た。」
妹子は1枚目の手ぬぐいを広げながら、一寸手を止め、
「でも、昨晩は、だって・・・」
若君はのどの辺りに違和感を感じながら、けれど、それを押し留めてからその問いかけに応える。
「そうだよ?額田部のおばさんとこ行ってきたけどさ」
妹子はあわてて周囲を伺った。
夏を前に切りそろえた垣根は庭を挟んで、とはいえすぐ間近のこの距離では何時誰の耳に入るともわからない。
「おばさんって、しかも、今はもう即位されて――」
さえぎるように若君は右手を振った。
「あーわかってるって、推古さんでしょ? いいのいいの、俺と姉さんの仲だから」
ため息しか出ない。
その関係を築いていることに安堵し、けれどわずかだが、嫉妬する。その生まれに。
「どこで飲んだんですか?そんなにべろんべろんになるまで?」
「いや、朝まで、おばさんとこでさ」
「大丈夫だったんですか?」
若君が右手の袖で額を拭った。そのまま口元に袖が移る。
「ちょっとわりぃ、水、くんね?」
その声に少しあわてて、
「は、はい、ちょっと待ってください」
手際よく立ち上がり、まだたたまれたままの手ぬぐいを持って隣の部屋の水桶へ小走りする。
――待ってもらいたいのは俺の胃袋だ。
目を閉じた若君は心の奥で呟く。そして、昨晩の出来事を妹子に届く声で話し始める。
「『どこに住めばいいの?』って聴くんだ。急にさ、」
妹子は水の入った急須と、茶碗を持ち寄り、傍らにひざを付いて「はい」と手渡した。
片目を開いて、「おう、わりぃ」と詫びると、口元に当てた右手で茶碗を受け取る。
「ひどい酔いかたですね」
急須で一口分を注ぐ。
若君は口元に運ぶと一息に飲み干す。
若君は器をゆっくりと床に置くと、あいた右手の掌を妹子に差し出した。
何も言わずに畳まれた手ぬぐいを半分広げて若君の右手に手渡す。
若君は口元をその手ぬぐいで拭うと口を開いた。
「いや、あっち出るとき、まだ楽になったほうなんだよ」
手ぬぐいを持った手で、邸宅の門の方を指差し、
「籠がさ、あいつら、走りやがって、ゆっさゆっさゆっさゆっさ。酔っとるっちゅうとるやろが!って言ってんのにさ、聴かねぇの」
妹子は手ぬぐいを奪うように立ち上がると、先ほどの水の入った水桶の隣の甕に手ぬぐいをくぐらせて堅めに絞った。
「また、どこかにうつられるのですか?」
戻ってきた妹子の手から程よく濡れた手ぬぐいを受け取ると若君は続ける。
「いや、だからね、言ってやったんだよ、斑鳩(いかるが)行きをいまさら取りやめて、別のところへうつっても、どうにもなんねぇよ?って」
「それで、ひきさがったんですか?ひきさがらないでしょう?」
「いや、だから、こうなってんだよ」
――いや、わからないから――。言いかけて妹子は問いを改めた。
「酔ってることとどうつながるんですか?」
「おまえは、生真面目だよな、」
手拭いを額に乗せて、若君は横になった。
――これだから、酔っ払いは。
吐き捨てるように小さく言って、妹子は距離を置き、書机の前に座った。
正直酒の臭いは好きでは無い。まして衣から漂ってくる二番煎じでは、酒の悪いところばかりが際立つ。
全て脱がして井戸に漬してしまっても3日はとれないかもしれない。
若君はそのまま話をつづける。
「だからね、飲んだの、朝まで。四天王寺(してんのうじ)から、若い坊さん呼んで、朝までお経聴きながら」
若君の口元が笑っている。
「え?お経?」
「まじで、酔えないから」
「それで……」
若君は手拭いを口元に持っていく。横になる姿勢もそれはそれでつらいのかもしれない。
酔えないと言った本人は明らかに酒に呑まれているのだが。
「え?でも酔っているんでしょ?」
若君は身体を起こした。
「いやいや、おばさんはヤケ酒ですよ、もうね、飲みまくり」
酒の席に似つかわしくない―若い坊さん―という単語がわずかに遅れて妹子の脳内で混乱を生じさせる。
「そんなバチ当たりなことやって大丈夫なんですか?」
「いや、若い坊さんは緊張しまくりのカミまくりだったけどさ、 『すみませんでした、こんなに長い間読み続けたことはありませんでしたので、でもいい経験になりました』って」
「そうじゃなくて――」
遮って若君は彼の名を呼んだ。
「いいか、いもさん?」
「は、はい」
「病は気からって慧慈のおっさんも言ってたっしょ?」
「は、はい」
この男は師と仰ぐべき高僧をおっさんと呼ぶ。
ここだけではなく、実際に慧慈様の目の前でにこにこしながら「おっさん」と呼ぶ瞬間を目の当たりにして嫌な汗をかいたのを思い出す。
おっさんだけではなく、例のおばさんと呼ばれたお方のことも気に掛かる。
「それで、推古さまは?」
「効果テキメン」
「え?」
若君はニヤリと笑う。
幼い頃、虫嫌いな女中に対して昆虫の腹を見せながら追いかける案を思いついたときに見せた笑顔だ。
そのときはなんとか思いとどまらせることに成功したが、今回は後の祭りかもしれない。
「ちょっと荒療治だった感じはあるけどさ」
――もう、手遅れだ。
「日が昇って一眠りして、すぐ起きたんだけど、さっぱりした顔してさ」
若君の笑顔が優しくなった。
妹子は姿勢を正したまま「はい、」と小さく相槌をうつ。
若君は口調を真似て言った。
「『だめね、アタシ。もっと、この国のためにできることを考えなくちゃ。女だから、なんて逃げてられないわ』って」
――あの推古様が?後ろ向き思考のカタマリみたいなあの推古様が?
「ホントですか?」
「ホントだよ、」
「そんなに・・・」
お酒の力は人を変える。それは以前からべろんべろんになっている目の前の若君を何度もみたことがある。
けれど、お経の力というのはそれほどまでに人を変える力を持つということなのだろうか。
若君は苦い顔をして首を横に振った。
「でも、ありえねぇ。」
「なにかあったんですか?」
「だって、あのおばさんすげぇ飲むぜ?夜飲んだのに、朝から再開だってよ」
若君はアハハハハと大きく笑った。
「もうさ、つきあいきれねぇよ、なー」
そう話した彼の眼は優しくて、ちょっと嬉しそうだった。
人が元気になること、そういうことを考えさせたら、確かに天才で、だけど、普通に考えると、酒の肴に、お経という荒療治は彼以外誰も思いつかない。
妹子はほっと胸をなでおろした。
「あー、しんどー」
「もう一杯のみますか?」
「酒はもういらねぇよ」
「お水です」
「ありがと」
若君は床に置いた器を手にした。
妹子は再度水を注ぎ、若君はひとくちでそれを飲み干した。
心なしか若君の頬に朱が戻ってきた気がする。
「なぁ、妹子?」
「なんですか?」
「木簡があるだろ?」
「普段使ってるモッカン?」
書机の脇に置いてあった木簡を拾い上げて妹子は若君に見せる。
「これですか?」
「そ、その木の板切れ」
若君は真面目な時の声色で問いかける。
「同じ大きさに切った木管。20個くらい重ねてあるんだ。みんな同じことが書いてある」
「同じこと?」
「あぁ。なんでもいいんだけど、それがいくつもあるんだ。書き物用の、木簡」
若君は妹子が手に持ったその木管をじっとにらんだ。
「どうも見分けがつかん。だが、必要な一本を急いで手に取りたい」
妹子は言った。
「簡単です。色のついた紐でも使って縛っておけばいい」
妹子は書机の上からもうひとつ手にした。
彼の手に持った2本の木簡は。
ひとつは紐のついていないもの。
もうひとつは朱の紐が通され、ゆらゆらと揺れている。
若君は「あぁ、そうか」と微笑んだ。
「色を変えれば、同じものはなくなるのではないですか?」
背中を襖にあずけた若君は天井を仰いで、
「あぁ、そうか、色か。色だよな、色だよ」
心の雲が晴れた子どものように笑った。
彼は、そうやって時折変な質問をする。
彼は仰向けの大の字になって、部屋から見える空を見上げた。
濡れた手拭いを額に乗せる。
妹子は書机の前に座って、急須に入れた水を少し硯に注いで墨を磨ぎ始める。
静かに雲が流れていく。
部屋の中に新しい墨の香りが広がっていく。
「なぁ、妹子?お前は、どんな色が好きだ?」
「私ですか?」
ふと手を止め、妹子は話しながら手元を動かす。
「私は、、、紫でしょうか。空の青よりもずっと濃い、夕暮れのあとの空のような色です」
「夜の方が好きなの?」
「心が穏やかになれます」
「月の光の色じゃないのか?」
「まぶしすぎます。けれど、日の光があたれば、紫は高貴に輝く。そうは思いませんか?」
「ん〜、どうだろ?」
若君は起き上がると庭のほうをぼんやりと眺めている。
「また、何か考えているのですか?」
「あー、いや、能力のあるものを、適切に、、、適材適所というのかな?
血筋でできることと、そういう昔からの慣わしが足かせになることがある。
それを区別できないかと思ってな」
妹子は墨を傍らの器に置いた。
充分に黒い墨が適量出来上がった。
「なにやら難しそうなことを考えていらっしゃいますね。」
「そうか?得意なことは得意なやつにやらせたほうがいいに決まってる」
「それはそうです」
そういう単純な事柄なら、妹子の身にも覚えがある。
「妹子は、大陸の言葉をよく知ってる」
「ええ、ただ好きで学んでおるだけでございます」
「そういうのがいずれ役にたつ。」
「私の、これは、そうは思いませんけどね」
そこまで言うと、妹子は新しい木簡に紫色の紐をひとつ通した。
そして木簡に、とある二文字の言葉を慣れた手つきで記した。
――我ながら良い出来だ。
妹子はひとつ微笑んで、筆を置いた。
「なぁ、妹子」
「なんでしょう?」
「ちょっとさ、お前、一度でいいからあっちいってこいや?」
「あっち?」
手を止めて若君の次の言葉を待つ。
「大陸」
「え?」
「唐の国の文化を教えてくれないか?」
「わ、わたしがですか?」
信じられない言葉が若君の口をついて出てくる。
筆を持っていたままだったら、衣にも床にも、墨が飛び散っていたかもしれない。
けれどもし、行くことができるのなら、それは私の望んでいることのひとつでもある。
「いや、今すぐっていうんじゃないんだ」
若君は微笑んだ。
妹子もひといきついた。急須に入っていた水を器に入れて、今度は妹子がひとくちやった。
若君はぼんやりと庭を眺めている。
その横顔は真剣な表情だった。
「だけど、他のヤツの言うことは、信じられないときがある。
 けど、妹子のいうことなら、納得ができそうな気がする。
 この国は、今、俺たちがなんとかしないといけない。
 だから、妹子、俺を助けてくれないか?」
妹子は間髪いれずに縦に首を振る。
「わかりました。」
心の準備はもうとっくの昔に済ませてある。
我々の間には、相応の身分の違いが互いの身体の中に『血』として流れている。
だからこそ誓ったのだ。若君の人柄に。
そして、自分が迷ったときに幾度と無く救われた、その恩に報いるためにも。
「では、この学びの質を少しずつ高めておきましょう」
妹子は床に広げた木綿の手拭いを拾うと、若君に手渡した。
「私ができることなら、なんでもいたしますから」
若君は濡れた手拭いを妹子に渡し、乾いた手拭いを受け取ると、優しく微笑んだ。
「そう、その言葉が聴きたかった。」
首筋に光る汗の玉を、若君は乾いた手拭いで拭った。
「妹子ぉ」
懐っこい声色で若君は、妹子の名を呼んだ。
「じゃあさ、俺の部屋の片付けをさ、」
妹子は遮って言った。
「それは自分でやってください」
若君の額を手に持っていた紫の紐を通した木簡で軽く叩く。
妹子は立ち上がると甕のある部屋へ手拭いを持って行く。
「それを部屋にでも飾ってください」
若君は困惑しその木簡に目を落とす。
――禁酒――
そう書いてあった。
若君はひとりごちた。
「妹子は相変わらず、達筆だのう」


   ***


推古天皇が即位されて15年が過ぎたころ、妹子は唐へ向かう舟にのった。
大陸の文化は華やかで、さまざまな方法で国をおさめ、役人をあつめていた。
仏教という教えを中心に据え、
人々の「こころ」を穏やかに保つ術を方法として利用していた。
――学びはいづれ役に立つ――
その言葉は真実になった。
そして妹子は渡航から1年の歳月を経て、飛鳥の地へ戻ってきた。
「こんなところにいたのか?」
庭にある池のほとりで立っている妹子を見つけ、若君が声をかけた。
「若君、」
振り返り思わずそう呼んで、けれど訂正をする。
「あーいや、聖徳さま」
頭を下げた私に、少しだけ余所行きな声色で、「無事でなにより」と言う。
顔を上げた私を見て、聖徳は笑っていた。
「礼をいわせてくれ、ありがとう」
妹子は首を横に振る。
「あなたがおっしゃったことは真実になりました」
「なんだ?」
「『学びはいづれ役に立つ』と」
後頭部を掻く仕草をしながら「そんなこと言ったっけ?」と微笑む。
「ええ、おっしゃいました。私が唐へ行く船に乗る5年も前に」
「ごめん、おぼえてない」
「いえ、いいんです」
そんな些細なこと、覚えているほうが可笑しい。
池の中で小さな魚がひとつ跳ねた。
聖徳はそれを見ながら、胸の前で腕を組み、言った。
「だが、確かにそうだ『学びはいづれ役に立つ』。妹子が私に教えてくれたことは、今、この国に必要な事ばかりだ」
それ以上の労いの言葉は見つからない。
渡航が無事終わったのも、聖徳さまのお導きかもしれない。
「ところで、妹子?」
「なんでしょう?」
「こんなところで何を?」
「池のほとりにあったこの花を、いくつか持って帰ろうと思案しておったところです」
足元に小さく白い花が咲いている。
「花?持って帰ってどうするのだ?」
「おうみの、私の里の、むらおさが亡くなられたという報せを受け取りました」
「そうだったのか・・・」
聖徳さまが心を痛める必要は無い。
だから、私は勤めて明るく言葉を続ける。
「つらくはありません。時が経てば、いずれ私たちにもその時は訪れます」
「そうだが・・・」
「少し心が落ち着かないので、花を供えようかと思い、先ほど部屋に飾ったのです」
「花を?」
「ええ。ですから、この白い花を――」
「白い花をどうするのだ?」
「部屋に置くのです。器を、なんでも構わないのですが、器に土を盛り、そこに花を」
「器に花?」
「ええ。少し心が落ち着きました」
「それはよかった。だが、部屋の中に花が咲いているというのは・・・ん〜、想像できん」
聖徳は眉間にシワを寄せた。
「部屋の中に花が咲くのはステキだと思いませんか?数日間なら、花はその色を落としはしません」
「いいじゃないか。それも、大陸の文化なのか?」
「ええ。私が学んだことのひとつであります」
「さっそく、見せてくれないか。私の部屋に、花を咲かせてくれないか」
「ふー、まったく。」
元よりそのつもりだった。
妹子はふと思いを馳せる。
この数年で彼は大きな仕事をいくつも行った。
都はその施策のおかげで、活気に満ちている。
一年でこれだけ変わったのだ。
けれど、彼が以前と同じように、妹子を頼ってくれるのが喜ばしかった。
妹子は言った。
「しかたありませんね。あ、若君、」
「なんだ?妹子?」
「部屋はちゃんと片付いているんでしょうね?」
「ん〜、大丈夫だと思う」
「まったく」
妹子はわざとらしくため息をつく。
「花を生ける前に、またそこから始めないといけないのですか?」
「大丈夫だといっておるだろ」
――幼い頃から数えて、何度このやり取りをしたことでしょう。
その度に、若君は「大丈夫だ」と言い、
その度に、妹子は惨事を目の当たりにする。
以前、若君の部屋の片づけをしている最中に、額田部皇女が偶然廊下を通った際にその惨事を比喩して言ったことがある。
――まるで厩戸(馬小屋)ではありませんか――と。
妹子は池の傍らに咲いたその花を摘むと、聖徳に言った。
「かまいません、また馬小屋と言われる前に、私が手を打ちましょう」
妹子は聖徳の手を取って、引きずるように連れて行く。
「さぁ、行きましょう」


部屋につくと、比較的整理整頓がされていた。
聖徳は少し誇らしげな顔をして言った。
「だから、大丈夫だと言っただろう」
「もう、厩戸皇子(うまやどのおおきみ)とは呼ばれなくて済みますね」
安心したような、けれど少しまた距離を感じて、聖徳が勧める座布団の上に腰を下ろす。
「何か、器はありますか?」
聖徳が声をかけると、ひとりの下女が3つの器を手に現れた。
妹子は平たい陶製の器を手に取って、下女に頼みごとをした。
「土が欲しいのです」
下女は「申し訳ございません」と小さく言った。
聖徳は「わからなくて当然だ、私もどうやるのか全く知らない」と笑った。
下女は安心したような微笑を浮かべた。
聖徳は続けていった。
「いい機会だ、妹子について行って、学ぼうではないか」
妹子は立ち上がると、選んだ器を手に立ち上がる。
縁の草履を履いて、聖徳邸の庭の土を手で掬った。
付いてきた下女があわてて手拭いで妹子の手を拭う。
「大丈夫です。いいですか?こうやって、庭の土を、程良いくらいに器に盛ります」
聖徳は縁の内側から、ふたりの背中を遠く眺める。
下女が土の盛られた器を手にそろりそろりと戻ってくる。
妹子は手拭いで手を拭きながら、聖徳に言った。
「この娘が部屋の片づけを?」
「そのような役目はいらないと言ったんだがな」
「推古さまが見かねて?」
「昨年の、そう、妹子が舟に乗ったその日のうちにひとりよこした」
妹子が下女を見やると、ひとつ頷いた。
妹子は草履を脱いで部屋に上がると聖徳に言った。
「すばらしいご決断だ」
聖徳は「私もそう思う」と笑った。
二人が腰を下ろすと、下女がその合間に器をゆっくりと下ろす。
下女が立ち上がろうとしたので、妹子は「そこに腰を下ろしなさい」と促す。
聖徳の顔色を伺う下女は、聖徳がひとつ頷いたので、そのとおり腰を下ろした。
妹子は慣れた手つきで、器の土を形作っていく。
「先ほど摘んだ花をここに立てるのです」
白い可憐な花を固めた土に差し込んだ。
「手立てとしてはこのように簡単です」
聖徳は言った。
「お前にもできそうだな」
下女は首を横に振った。
妹子は言った。
「季節や、祭祀に合せて、器を選び、花を選びます。そういう文化としての手立てが絡んでくるとちょっと難しいかもしれません」
「お前には難しそうだな」
下女は大きく縦に首を振った。
妹子は下女に言った。
「土に感謝すること、花に感謝すること、それから、誰かを想って花を見立てること」
下女は目を輝かせて、大きくひとつ頷いた。
聖徳は尋ねる。
「お前にもできそうか?」
下女はひとつ頷いた。
妹子は言った。
「水を、この器に雨をあげるのです。注ぎすぎてもダメですし、世話をしてあげないのはもっといけません」
下女は頷いて聞いている。
聖徳は言った。
「妹子、すばらしい文化だな」
「私もそう思います」
夏の空にぽつりぽつりと雨が降りてきた。
聖徳は言った。
「雨か?」
妹子は言った。
「では、この器にも、雨をあげましょう。急須でかまいません、水を持ってきてください」
下女は張り切って立ち上がった。
小走りで廊下を駆けっていく。
妹子が言った。
「真直ぐな良い目をしている」
「だが、ひとつだけ、譲らないことがある、頑固な娘だ」
「なにかあったのですか?」
聖徳が腰をずらし、背中の壁を指差した。
「これをここに飾ると言って、聞かないのだ。
 妹子に額を叩かれた話をしたんだが、それ以来、ずっとここに置くと言って聞かない」
いつか書いた紫の紐のついた木管が壁に掛けてあった。
「毎日、妹子に怒られているような気がする、酒も飲んでいないのにな」
聖徳は笑った。
下女は持ってきた急須を妹子の前に置いた。
妹子は下女に土を触りなさいと促した。
下女は恐る恐る指先だけで土に触れた。
妹子が急須を手に取り、水を少しずつ注いでいく。
土が少しずつ潤っていく。
下女はじっとその土を見つめる。
妹子が水を注ぐのをやめると、下女は自ら進んで両の掌で土に触れた。
「このくらいが今の季節ちょうど良いと思います」
下女は頷いて土を触った。
怖れるものを触るのではなく、いつの間にか愛しいものにふれるように。
「夏は乾きやすいですから、注意しておきましょうね」
そう言うと妹子は立ち上がり、廊下に出ると、別の下女に手拭いを濡らしてくるように告げた。
土を触っていた下女は、はっと気付いて、両手が土まみれになっていることを恥じた。
妹子は濡れた手拭いを下女の手に近づけ、妹子自らが下女の手を拭う。
「誰かを想うことで、花は一層美しく咲いてくれます」
下女は頬を赤らめて目を伏せた。
「花を想うことで、その花は一層長く、その色を見せてくれます」
妹子は手拭いを丁寧に内折りに畳むと下女に手渡した。
下女は「ありがとうございます」と小さく言った。
妹子は器をゆっくりとまわし、聖徳の方に正面を向けた。
「部屋の中に花が咲くとは」
聖徳は感心して花に見入っている。
妹子は口を開いた。
「八百万の神々からの頂き物です。感謝をする気持ちを忘れてはいけませんね」
聖徳は下女に言った。
「この花は、なんとなくお前に似ているな」
下女は首を横に振った。
「感謝しているぞ」
下女は深々と頭を下げた。
下女が口を開いた。
「聖徳さまは、身体を壊さない善き教えだと、その木簡を大切にしておられます」
妹子は呟くように言った。
「そんなもの、片付けてしまっていいのに」
妹子がそういうと、下女は言った。
「いつも皆におっしゃられております、妹子さまに頂いた、都で一番達筆な木簡だと」
下女は続ける。
「私は学がありません、なんという意味なのですか?聖徳様は教えてくださらないのです」
聖徳と妹子は目を合せて、苦笑いした。
聖徳は振り返って、その木簡を見て、けれどまた妹子の方に向き直って、やっぱり苦笑いした。
妹子は唐の発音を真似てそれっぽく言うと、
「『我が身を省みて、身の丈を超えるような無茶をしない』という意味の教訓です」
下女はまた頭をさげて「ありがとうございます」と言った。
聖徳は言った。
「この紫を、妹子に返すときが来たようだ」
聖徳は続ける。
「冠位、大徳 (だいとく)を、正式に妹子、お前に授ける。渡航の難儀よくやってくれた」
「聖徳さま――」
聖徳は言った。
「だから、明日にでも斑鳩へ行こう。ついでに推古さまにも花を見せてやってはくれぬか?」
妹子は言った。
「では、この下女を共に連れて行きましょう」
聖徳は続ける。
「それと、悪いんだが、」
「なんでしょうか?」
聖徳は言った。
「この木簡と同じ文言を書いてやってくれ、おばさん、昨日も呑んでたらしい。やってくれるか?」
妹子は言った。
「しかたないですね。けど、言ったでしょう?私ができることなら、なんでもいたしますから――と」
「そう、その言葉が聴きたかった」
以前もこのようなやりとりをした覚えがあった。
思い出したのか、聖徳と妹子はふたり同時にこみ上げるように笑った。
「私が手を打ちましょう」
「頼んだぞ」
妹子はひとつ頷いて、快諾した。



  END